BLOG BLOG ブランドの命がけの飛躍

2010年07月09日

 コミュニケーションは、一般的に送り手(話し手)が意図を込めて、受け手(聞き手)がその意図を解読するというモデルで理解されていることが多いのですが、最近のコミュニケーション論の主流は、コミュニケーションにおける意味は受け手(聞き手)の理解に全面的に依存するというものです。ここでは、送り手の意図などはリダンダント(余分なもの)であるということになります。

 卑近な例でいえば、同僚への「もっと頑張ろうよ」という何気ない激励が嫌味として理解されるといった場合、送り手がどのような意味を込めていても、受け手が嫌味と理解して時点で嫌味ということになります。送り手側に出来ることは、受け手に嫌味であると理解された事実を踏まえたうえで、そのような意図がなかったと弁解するだけです(ただし、嫌味であると理解した後に、誤解であることが理解されたといったように、弁解が成功したとしても、嫌味として理解された事実は変わりません)。

 繰り返しになりますが、重要なことはどのように理解されるかは受け手次第ということです。

 上記のような視点で構成されているマーケティングの書籍として、『ブランド』(石井淳蔵)があります。例えば、(1)企業側がどのようなメッセージを込めようとも消費者がそのような意味理解をするとは限らない、(2)商品が売れるときそこには商品への欲望が事前に存在しているわけではない、(3)ブランドがブランド足りうるのはいかなる根拠もなく、それがブランドだからだという自己言及でしか解明できない、といったように徹底的に根拠のなさを指摘します。

 このことは、マルクスの「命がけの飛躍」という言葉を多用していることからも分かります。詳細は割愛しますが、マルクスは商品が等価交換されるのは、交換に先立って同じ価値であることが証明されていたからではない。兎にも角にも交換が先にあって、交換が成立した後に、同じ価値であったことが証明されると述べます。じゃぁ、交換に根拠はないじゃないかと言いたくなると思います。根拠はありません。これは論理の問題ではないのです。だから、命がけの飛躍なのです。

 このように、流行る商品に本質的な理由(**だから流行った)はないという立場を採用すると、ハウツーとは全く無縁な理論となります。

 ブランド価値ないしはパワーを、[ブランドの]拡張以前にそもそも識別することができるのだろうか。......ブランドが拡張に成功した(失敗した)後に、その価値が何であったかないしはどれだけのパワーがあったのかが分かるようなたぐいの問題だということである。あるブランドが拡張に成功したとき、「ある価値やパワーがあったから成功した」のではなく、逆に「成功したから、そうした価値やパワーを仮構できる」という方が正確なのだ(p.158) [ ]内は補足

 価値があったから拡張したのではなく、拡張したから価値があったことが証明されたということになります。徹底的に「どうすれば?」という問いを排するわけで、大手書籍通販サイトでも石井氏の他の書籍に対して、「実務上の役に立たない」と評されています。しかし、個人的には、上記のような本質などはないというスタンスを採用しながら、実務上の役に立つものにしようと、ところどころ、「本当は...」とか「こうすれば...」といった甘い囁きに屈している点の方が気になるのですが...。

(担当:天野)

追記
先日、システム本部のミスターLBCことTさんと神宮球場に行ってきました。Tさんはライオン好きなのですが、ネコ科ヒョウ属同士ってことでトラの応援をしています。
『戦後日本の大衆文化』(昭和堂)という本によれば、トランペットでの応援歌演奏に合わせてメガホンを打楽器にして声援を送る、観客が参加者として野球を演出するスタイルは1978年に広島カープのファンが確立したスタイルだそうです。

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